議論の場で、綺麗事ではなくあらゆる意見が大切だと言える理由
もともとこういう考え方をしているところからも、もしかしたら僕はファシリテーターに向いていたのかもしれません。
僕は、「面白い意見を出す人」なんて、いないと思っています。
まどろっこしく書くなら、
ある意見を、そこに参加している人が「面白い」と判断したとき、とりあえずその場においては、その意見が「面白いもの」として認識される。
・・・という風に考えています。
言い換えるのなら、周りに認識されなければ、「面白い意見」は生まれません。
すごいのは、「面白いアイディアを出す人」ではなく、それを「面白い」と判断したその場の人達です。
話はかわりますが、色々と議論を繰り返しながら、最終的には元の意見に落ち着いた・・ということがあります。
それは議論を繰り返す中で「元の意見」をいいと判断する材料が、その場の参加者の中に揃った奇跡の瞬間です。
もしかしたら、その材料が揃わなかったかもしれませんし、新たな意見が生まれて、それが面白いと判断される可能性もあったわけですから、改めて「元の意見」をいい意見だと判断できたことは、とっても前向きに捉えられることだと思います。
いくつもの判断のもとに、「面白い意見」がその場に生まれるのだとしたら、判断材料となる意見に「どうでもいいもの」なんて、1つもないのだということに気が付きます。
何か意見を聴いたときに「つまらない」「違う」と感じるということは、自分の中に強烈に「楽しい」「そうだ」と肯定的に捉えている何かがある・・ということに他なりません。
議論の場は、大量の意見・情報を浴びながら、自分自身の本質に近づいていく場と言えます。
意見がたくさん出れば出るほど、それぞれが自分の根底にある価値観に気付き、納得感の伴った判断ができるよう、自分は変容していきます。
・・・とまぁ、そう捉える人ばかりの場であればいいのですが、実際にはそううまくいく場ばかりではありません。
「面白い意見」を言おうと1人で熱くなって言葉数が少なくなったり、
「それは違う」と自分の中に入れる手前ではたき落としてしまったり、
う〜ん、すごくもったいない。。。。
議論の場において、無駄な意見は一つもありません。
何も気にせずに自分の意見を出してみる、
相手の意見をちゃんと聴いて自分と対話する、
それを行うためには、その場における安心感やゆとりが必要です。
そういった場を意識的にデザインするためにも、きっとファシリテーターという役割が必要なんだなぁと、考えています。