動ける人は、恵まれている。
前文:この文章が出てきたのは、現在、事業を通じて、多くの子供達と接する機会が多く、自分の過去や生い立ちを振り返る時間が増えているからだと思われます。あとはもう1つ。「自己開示」をしているようで、していないと言われるから、ブログには自分のことを書いてみようかなぁと思ったからです。
僕は、自分が恵まれていると思います。
収入が奥さんより圧倒的に低くても、
あんまり洋服持ってなくても、
週休2日制の企業に勤めたことがなくても、
築40年以上の賃貸戸建てに住んでいても、
その戸建てに巣くう虫達との共同生活を余儀なくされていても、
中高時代の友人達と疎遠になっていても、
「銀座」という響きに何かおどおどする気持ちになっても、
宝くじにすがりたいと思いながらも何か見栄はって買わない小市民でも、
それでも、恵まれていると思います(ちょっと泣けてきた)。
なぜなら、僕は多くの場面で、多くの人に、自分の多くの行動を認めてもらえてきたからです。
奥さんが、
両親や妹やおじいちゃんおばあちゃんが、
義理の父と母が、
仲間が、
仲良くなった杉並区のみなさんが、
そんな生き様をしている僕の周りにいてくれて、
認めてくれる。許してくれる。
自分の生き様を、自分一人で肯定できるほど、僕は強い人間ではありません。
周りに認めてくれる人がいて、初めて、「あぁ、こっちでいいんだ」と思えているんです。
もしかしたら、これが自慢に聴こえる方もいるかもしれません。
そうです、自慢だと思います。
分かりますもん。
自分の生き様を周りに認めてもらえることが、どれだけ幸せで、稀で、大変なことなのか。
時代
環境
国
地域
会社
家柄
家族
友人
恋人
そして自分自身
・・・本人の意志などおかまいなしに、絶対的な力が、自分の生き様を歪めることがあります。力が作用した結果、変えられたにも関わらず、あたかも自らの意志で変えたと思い込んでしまうときもあります。
しかも、その力の根源が、必ずしも悪意のものではなく、どうしようもないものだったり、下手したら“愛”という名目の下で行われることもあります。
でも、僕は、本当に運よく、そういったことが少なくて済みました。
選びたいことを選べた。もしくは選びたくないことを切り抜けることができました。
選ぶ力や、切り抜けるための材料を集めることができました。
「選ぶ力や、切り抜けるための材料を集める」という動きを、許されました。自分でそれを許すことができました。
恐れたこともあったけれど、最終的には乗り越えてこられました。
恐れないで済む“何か”を持っていました。
“何か”とは、これまでにも積み重ねてきた小さな小さな「認められた」という実感なんでしょうね。
Thank you father, mother and my friends〜♪♪(by Dragon Ash)
僕には、ありがたいことに、それがあります。
だから、動くことができます。
精神的にも、物理的にも、動けます。
僕は、そんな恵まれた自分に自覚的であろうと思っています。
・・・まさか、中性ヨーロッパの貴族は、僕のようなクソ平民がこの言葉を、こんな文脈で用いるとは想像していなかっただろうけれど。
僕は、“本当に”“心から”自分のやりたいことしかやっていないし、
それがたまたま自分のまちのためになっていてラッキーぐらいにしか思っていないのが本心なんだけれど、
もう一方で、僕ほど周りの環境や人達に恵まれた人間もそういないから、ちょっと頑張らなきゃなぁと思う社会的な自分もいたりします(こうやって自分のことを縛るのが好きなんです)
書かないですけど、他にも大変なことは色々ありますよ〜。
そして、これからも色々あるでしょうね〜。
でも、それでも、僕は恵まれていると思います。
(こうやって言えちゃう頭の構造というか思考回路が、一番恵まれてるのかもしれませんね)