色々なワークショップが開催される中で、“僕の”ワークショップとは。

*後述してありますが、あくまでも「僕がワークショップという言葉を使うときは、このような意味で使っているよ」ということを表現したものであり、人様のワークショップを「違う!」と否定するものではないことを、前提として共有しておきたいと思います。

「ワークショップ」という言葉が、目に、耳に、入ってくるようになりました。

すごくありがたいことに、ワークショップ開催をお仕事として依頼されることが増えてきたのも理由の1つですが、「ワークショップを開催したい」とか「ワークショップって何?」と、主催したいという声や興味を抱く人が増えたことは、自分達のまちを自分達で動かそうとする区民が増えたらいいなぁと思っている僕としては、とっても嬉しいこと。

一方で、「体験型ワークショップ」という「頭痛が痛い」みたいな名称を見たり、

講演を聴いた後にちょっと隣の人と意見共有するだけのイベントを「ワークショップ」と呼んでいたり、

「ワークショップとワールドカフェ、どっちがいいですか?」と聴かれたり、

とりあえずワークショップって言っておけばいいというような風潮を感じるようにもなりました。

他のものを見て“違う”という風に感じるということは、拙い経験ながらも自分の中にうっすらと基準が出来上がってきたということ。

これを機会に、改めて自分が口にしている「ワークショップ」とは何かというものをしっかりと言語化すると同時に、自分の指針にしようと思いました。

“僕の”ワークショップとは、何か。

1 答えをみんなで創る場であること

ワークショップを日本語で表現すると、参加体験型学習と言われることが多いようです。

僕はこれを、「参加者一人一人が主役となり、協働体験を通じて、みんなで答えを創り出していく場」という風に解釈しています。

そして、そのような場をつくるために、

少人数でのグループワークを通じて個性を発揮させたり、

丁寧なふりかえりを通じて集合知を生み出したり、

参加者との対等な関係での交流を大切にしたり、

会場設営や、細かいところまでいくと僕の当日の服装まで、

しっかりとデザインしています。

従って、講演をずっと聴く場や、一人一人が別々に言われた通りに物を作る場は、“僕は”ワークショップとは呼びません。

両者は、講師の中にある答えを、参加者が一方的に受信する場だからです。

もちろん、それらを否定しているわけではありません。

誰かのある1つの答えや視点を伝えたい場合には、講演。

答えをみんなで生み出したい場合には、ワークショップ。

…というように、あくまでも目的に合わせて、柔軟に選択するものだと考えています。

2.ゴールがきちんと設定されている

ワークショップには、「参加者やその場が、終了後にどうなっているか」を明確に表現したゴールが必要になり、主催者は会の始めに参加者とゴールをしっかりと共有することが大切です。

例えば、

「参加者の頭の中に、◯◯についてのアイディアが目の前の模造紙いっぱいに広がっている」とか、「参加者一人一人が、◯◯が出来るようになっている」というように、誰が見てもイメージが湧くような言葉です。

目指すべきゴールがはっきりしているからこそ、参加者はどっちの方向へ進んでいけばいいのかがわかり、主体性や一体感をもって、安心してプログラムに臨むことができます。

そして、そのプロセスで生まれる参加者一人一人の自由な発想や行動こそが、ワークショップの醍醐味です。

一方で主催者は、ゴールを実現することを目指してプログラムを組んでいきます。

言い換えるのなら、ゴールがしっかりと意識されていなければ、適切なプログラムを組むことはできません。

仕事を請け負うときに、担当者の方に開口一番で「ワールドカフェをやって欲しい」と言われたりするのですが、とりあえずやんわりとブレーキを踏みます(笑)

ワールドカフェはあくまでアイディア発散の手法の1つでしかなく、それをきちんと理解されている方は、実はまだそう多くはありません。

担当者の方が何を目指しているのか、なぜそこを目指しているのかをしっかりとヒアリングをした上で、ゴールを一緒に設定し、それにプログラムを当てはめていくというようなつくり方をしています。

3 個人での振り返りの時間・みんなで感想を共有する時間がある

僕のワークショップデザインの根底には、組織行動学者であるデービッド・コルブの「経験学習モデル」があります。

このモデルは、

体験(まず、やってみる)

省察(振り返る・共有する)

概念化(自分理論を打ち立てる)

試行(自分理論に基づいて再チャレンジする)

という一連のサイクルを回すことで、自身が経験したことをより深く定着させることが出来るという考え方です。

このモデルを見て分かる通り、ワークショップの肝は、しっかりと自分が体験したことを振り返ることです。

まずは個人で内省を行い、それを他者と共有し、新たな視点を取り入れながら更に深い気付きを得るというように、段階を踏むことが大切です。

きちんとした個人の振り返りの時間をとれていなかったり、共有する時間が短過ぎると、ワークショップの効力を十分に活かすことができません。

ワークショップというと、どうしても「体験」を重視し、たくさんのワークを詰め込みたくなってしまいがちで、まさに僕もそうでした。

しかし最近は、「体験」の時間を長くとらなくてはならなくなった場合、僕は、他の「体験」を削ってでも「省察」の時間をとるようにしています。

数々の失敗から、たくさんのワークを体験したときよりも、1つのワークを深く掘り下げられたときの方が、参加者の満足度が高いということに気が付いたからです。

4 安心・安全な場づくりや事前準備が徹底されている

参加者の主体性や、参加者同士の協働という、ワークショップの生命線を担保するためには、「自分の話をちゃんと聴いてもらえる」「今日はここを目指せばいいんだ」と感じてもらえるように、参加者が安心してその場にのめり込めるようにするための工夫が不可欠です。

具体的には、受付での第一印象に注意したり、会場の装飾品やスライドのデザインに気を配ったり、お菓子やお茶をおいてみたり、今日の場のグランドルールをしっかりと共有したり、アイスブレイクのプログラムでしっかりと緊張をほぐしたり…などです。

…さぁ、お気づきでしょうか。

これらの工夫のほとんどは、ワークショップを開催する前にしっかりと計画しなければならず、しかもワークショップ本編に移る前までに確実に実施しなければ効力を発揮しないことばかりなのです。

従って、僕はワークショップをデザインするときには、事前にとにかくたくさんの情報を仕入れます。会場の様子・参加者の人数や性別や世代の分布・参加者の関係性(普段からよく会う仲なのかなど)・ワークショップなどへの参加経験などなど、根掘り葉掘り聴きます。

可能な限りの情報を集め、当日の様子をリアルに想像することで、参加者により沿った安心・安全の場をデザインすることができます。

5 ファシリテーターがいる

しっかりとした事前準備をしながらも、当日、会がどのように進んでいくかは正直分かりません。例えゴールをしっかりと共有していても、参加者の一言や一行動で場の雰囲気はがらっと変わるからです。

また、運営をしている最中に、当初設定していたゴールではない方がいいと気が付く場合もあります。そのような状況に応じて、適切な介入を行うのがファシリテーターです。

ファシリテーターの行動は、全て、ゴールを実現するためにあります。

場を盛り上げたり、問いを投げかけたり、板書をして見える化したり、参加者との対等性をきちんと確保した上で異なる視点から意見を投げかけてみたり、プログラムを途中で変更したり、介入の方法は様々です。

前述した、安心・安全の場づくりと、明確なゴール設定と、それを実現するためのプログラムデザインによって、ファシリテーターの仕事は8〜9割方終了していると僕は思います。

…が、「神は細部に宿る」との言葉の通り、残り1割である当日の場の状況に合わせた介入が、もっと言うと、ファシリテーターのほんの些細な一言が、ワークショップの成功や失敗に大きな影響を与えていることにスリルを感じながら、お腹を壊しながら、いつも場に立っています。

「ワークショップ」も然り、このような「言葉と内容の乖離」は、新しい分野においてはよくあることなんだと思います。

その上で、「私が正しい」「いや、私が正しい」と主張し合うのは、(特にネット上では)無意味だと思います。

それぞれ、実体験をもった上での主張だと、自分で思っているからです。

そもそも、ここでの「実体験」のことを、知人から聴いたり本をたくさん読んだりした結果を指す人もいれば、自分が他者に対して実践を繰り返した上での結果を指す人もいるので、もっと謎。

僕の考えとしては、

発信する側は、きちんとした定義をもつことと、他者に対し、その定義に基づいた体験の場を開くこと。

受信する側は、1つの側面から判断できることではないということをきちんと自覚し、自分自身で複数の場を体験すること。

これが、双方に求められるマナーなのかなぁなんて思います。

体験すれば、何が“いいもの”なのかは分かります。

特に、ワークショップなら絶対に。

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