杉並区で複数収入で生きてみて、もう4年目になった。
僕は、すぎなみでやりたいことをやり続けるために、複数収入で生きています。
きっかけ
2011年7月。
震災復興のために東北に行きたい。
仕事が大変な彼女(今の奥さん)を側で支えたい。
…そんな3つの想いが交錯する中、杉並区交流協会からいただいた「区民が集まるイベントを考えて欲しい」という一言。
これがきっかけで、杉並区ワールドカフェ・サロン“100とも”の構想が生まれました。
しかし、その先にある壮大な目的を実現するためには、一般企業に勤めていたら、構想したり、まちで行動したりするための時間が足りないと考えました。
いいや、バイトでもしながら活動しよう。かなり、即決でした。
セーフティーネット
即決とは言っても、彼女(今の奥さん)とは結婚を考えていましたし、そもそも僕は極めて安定志向な人間なので、万が一失敗した場合の立ち直り方もちゃんと考えた上での決断でした。
学生時代にお世話になり、「ここで働かせて下さい!!」と頼み込めば働かせていただけそうな会社が2社ほどあったこと。
また、学生時代のアルバイトでは10箇所以上で社員登用の話をいただいていたので、まぁ最悪どんな仕事をすることになっても楽しめるという自信もありました。
これらの安心感がなければ、交流協会からのお話は丁重にお断りしていたでしょう。
チャンスは実はそこら中にあって、自分が掴める状態のときにしかチャンスとして認識できないだけなのかもしれません。
仕事に対する考え方
まず、100ともではお金を稼げないことは分かっていました。
100ともを通じてつながった区民のみなさんと一緒に、「すぎなみに必要なお店」を考えてそこの店長をやろうとか、都会における多世代交流の先駆的モデルとして講演出来たらなぁとか、ぼんやり考えていました。
ただ、おそらく非営利なもの、もしくはその活動でお金をもらう文化をつくるところから始めなければならないものになりそうな予感はしており、そんなに稼げる仕事は出来ないだろうと。
だから、必然的に色々やって稼ごうという考えました。
「複数収入」という考え方自体は、大学時代にも何度か触れる機会がありました。
だからなのか、「何個仕事すれば足りるかな〜」という思考に違和感がありませんでした。
仕事の種類は3つある
あくまでも僕の中での区分ですが。
①「やりたいことで稼ぐ」
やりたいことをやるとお金が入ってくるというとってもハッピーな状態
②「出来ることで稼ぐ」
自分への信頼がきっかけで、仕事を頼まれる状態。精神的なストレスが少なく、時間を自由に使えることが多い。収入は仕事の内容による。
③「生きるために稼ぐ」
①②を実現するための時間とお金を得るために働く状態。雇用され、固定されたシフトで働くことで安定収入を得る。
最初は③を収入の基盤にしながら、活動を行い、徐々に②と①の収入の割合を増やしていくのが理想だなぁなんて考えていました。
あぁ、そういえば株式売買とか不労所得とかネットワークビジネスとか、そういう話を勧められたときもありましたが、全部却下です。
なんだろう、そういうのが合わない人みたいです。
さて、いよいよ実践。
1年目「収入安定・精神不安定期」
杉並区にくるきっかけを与えてくれた杉並区交流協会の方で、偶然にも求人が出て、職員になることができました。
当時の月収は、手取りで15万〜17万。
社会保険も完備で、週休3日制。
協会での仕事が直接区民と関わるきっかけにもつながる。
まちでの活動を拡げていきたい僕にとっては、最初の職場として、これほど恵まれた環境は他に考えられませんでした。
ただ、やはり1年目ということで慣れない仕事や、パソコン作業の多さに体を壊しがちでした。
また、YSP(ISPの前身の団体)も立ち上げたばかりで、団体運営の基盤づくりでいっぱいいっぱい。
もう1つぐらいアルバイトをしようと思っていたのですが、余力がありませんでした。
つまり、1年目は複数収入での生活を送ることができませんでした。
しかし、毎回確実に集まる100ともの集客力や、杉並区の一人一人とつながっていっているという実感から、YSPの活動は世の中に必要とされている、頑張っていれば必ずどこかのタイミングで収入につながる…という確証を得ることができました。
その想いも後押しし、2012年12月にYSPを法人化。新たにISPとして活動を始めました。
2年目「大転換期」
1年目の終盤は、交流協会を辞めることを考えていました。
今の自分に必要なのはお金ではなく、ISPに向き合うための自由な時間だと思ったからです。
しかし、事務局長の猛烈な説得もあり、「2年目に入って仕事に慣れたらもう少し余裕が出てくるかもしれない。また、協会の仕事を通じて得た区役所とのつながりを活かして仕事がもらえるかもしれない」など、改めて前向きに仕事に取り組むことにしました。
当時の月収は、手取りで18万〜20万。
交流協会のほか、まちのイベントのお手伝いや、ISPの昨年の活動がきっかけで区役所の研修等の仕事が入ってきたために、収入が上がりました。
このときまで、まさか自分が「ファシリテーター」として仕事をするだなんて、このときまで考えもしませんでした。
しかも、これは自分の夢を実現するための近道にもなっている…まさに、新たな道が拓けた感覚でした。
しかし、それは同時に時間への渇望にもつながりました。
ISPで積み重ねてきた経験や情報を上手に使えず、自身が行う研修や講演のクオリティの低さに不満を感じることもしばしば。
夢を実現するためには、とにかくもっと向き合わなくては杉並区に来た意味がない。そう思い、退職を決めました。
3年目「時間安定・収入超不安定期」
3年目は、100ともをきっかけにつながることのできた杉並区商店会連合会、そして和菓子屋さんで働きながら、ISPの活動を実施していくことになりました。
これら2つの職場では、非常にフレキシブルに勤務時間や日程を決めさせていただけたので、「時間を得る」という目的は見事に達成できました。
そのせいもあり、月収は手取りで10万〜46万…んっ?なんだ、この差は。
これまでISPにプールしてきた研修等の収入を少しもらうようにしたり、個人でワークショップを受託する機会は、去年の倍以上に増えたおかげで、それらが重なったときには多くの収入を得ることができました。
しかし、商店会連合会や和菓子屋さんで働く時間を削ったり、さらに仕事の受託がなかったときは、一気に収入が落ちました。
お金がないときには“本当に”なくて、年金も保険も払えずに、怪我したらアウトな時期が続きました。
4年目「そして今」
ようやく収入が安定してきました。…と言っても、4大卒の一般企業の初任給に毛が生えた程度なのですが。でも、これは僕にとっては本当に大きなこと。
昨年、しっかりと時間をかけて1つ1つの仕事に向き合った結果、今年も同じように仕事を頼んで下さったり、更にはそこから新たに紹介して下さることで、1ヶ月に2〜3件は確実に仕事を受託することができています。
「杉並区」という地域に向き合い、一人一人と向き合いながら活動してきた結果、自然と多方面へと枝葉が拡がっていっています。
また、固定収入を得る場としては、杉並区役所1階にある交流自治体の物品を扱うショップ店員としてパートタイムで勤務しています。
立地のおかげで、知り合いにたくさん会って、コミュニケーションや情報共有をすることができて、これまた便利。
もう収入があるので、社会の仕組みに対してもしっかりとお金を払えています(笑)
20代後半にもなって親に助けてもらったり、
年金が払えなかったり、
国民保険に入り忘れていたり、
ちょっと社会的にどうなんだと、情けないなぁと思う期間もありましたが、「自分のやりたいことを必要と言ってくれる人が増えていく実感」と共に、仕事と収入が少しずつ増えていく感覚。
これは、なんとも嬉しいものです。
今後の展望
現在、「地方とすぎなみを仕事でつなぐ」というキャッチコピーのもと、交流自治体と絡む新しい仕事を、これまた100ともで知り合った仲間達と始めました。
こちらを軌道にのせて、都会の若者が地方に繰り出すハードルを下げて、頻度を上げることで、地方と都会の距離を縮め、ゆくゆくは地方での起業や移住等につながるような、地方創生のモデルケースを目指したいなぁと。
あとは、きっとまちでの仕事がもっと増えていくので、今後とも複数収入で生きていくことになるでしょう。
僕は元々飽きっぽいので、このように色々な現場から刺激を受けるのがちょうどいいのかもしれません。
超・特記事項
そう、僕は結婚しているのです。これが、本当に難しい。
僕が独り身であるのなら、稼ぎが少なくても、いかようにでも支出は減らして暮らすことができるでしょう。
また、時間ももっと自由に使うことができると思います。
しかし、夫婦で暮らしていると、そうはいきません。
仕事・我慢・節約ばかりだと、愛が枯れます。
例え、僕がどんなに仕事の集中域に達していても、強制終了し、奥さんの隣にちょこんと座り、一緒に紅茶を飲みながら映画を見ることが必要なときが、夫婦にはあるんです。
夢を追うことを応援してもらうためにも、夫には「最低限の金銭的・時間的・精神的余裕」が必要です。
一方で、現在の精神的な安定感は奥さんあってのものだとも思います。
2年目の最後には、奥さんが積極的にISPの開催するイベントに参加してくれるようになりました。
これは、すごく嬉しい。
一番身近に、一番の応援団がいるっていうのは、夢を追うのにこれ以上ない最高の環境です。
全国の奥様方、旦那さんの夢を、信じてあげてください(切実)